『大吉原展』に行ってきました。

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5月19日に閉幕した東京芸術大学大学美術館で開催された「大吉原展」に行ってきました。

私が行った日は17日の金曜日、平日の上野公園は修学旅行の学生と外国人旅行者で賑わっていました。

当初はエンタメ要素が強いイメージでしたが、遊郭を美化していると批判が起こり、ホームページで主催者から説明の文書が載りました。この企画の趣旨を説明し、人権侵害と女性虐待であり、決して繰り返してはいけない制度と釈明しました。入り口にも上記と同じことが書かれた立て看板が立てられていました。

浮世絵以外にも映画やマンガや小説等で吉原を描いたものは多いけど、売買春であり、女性の人権侵害は間違いありません。

新たな文化が生まれた場所でもありますが、負の歴史でもあります。浮世絵の花魁には美しい姿しか描かれていませんが、陰の部分も認識しなくてはいけないと思います。

いまでも吉原跡地の近辺には幽霊が出るらしく、ノンフィクション作家で僧侶の家田荘子さんは、供養を続けているそうです。

最初は吉原の文化、しきたり、生活などを浮世絵と映像を見ながら説明しています。

上野公園の端っこにある東京芸大の美術館に着き、入場料2,000円を払い中に入ると結構な混み具合です。老若男女半々くらいが真剣に様々な展示物に見入っています。

徳川家康が江戸に幕府を開くと、町の整備のため各地から大勢の男達が集まります。男達の喧騒を静めるるため、幕府公認の遊郭が誕生します。それが吉原です。
そして、秩序を守るための独自のルールが定められました。

例えば、医者以外は馬や駕籠も用いてはいけない、鑓や長刀は持って入れない、武士であっても妓楼内では刀を預けること、などです。

遊女の一日です。
朝は10時(巳の刻)に起き、朝食、入浴、化粧、身支度をし、14時から昼見世が始まります。
昼見世は夜までに帰る江戸勤務の地方の侍や吉原見学客が多く、のんびり馴染み客に手紙を書いたり双六や貝合わせで遊びながらおしゃべりする時間だったそうです。

一旦16時に終業し、18時(酉の刻)に夜見世が始まります。客がついた遊女は2階の座敷に移動し宴会が始まります。
24時(子の刻)に夜見世が終業しますので、客のつかなかった遊女と禿かむろは就寝し、泊まり客は床入りします。卯の刻、朝の6時に大門が開き「後朝きぬぎぬの別れ」となります。

遊女が髪を洗うのは月に1回で、普段は丁寧に櫛でとかし汚れを落していたそうです。(豆知識!)

当時の様子を描いた何枚もある図屏風を見ながら説明文を読み進みます。
桜の木や松の木があり、格子見世にはたくさんの遊女がいます。表の道には刀を差した数人の武士が歩いています。
妓楼の奥座敷ではまだ宴会が始まっていない様子で、くつろいで横になっていたり、黒い羽織をきた女性が店の者に肩をもんでもらっています。

作者は菱川派の菱川師平、他にも菱川師宣、などなど。ちょっと知らない名前ばかり。絵巻にも、吉原の日常生活や郭の様子が上から鳥の視点で描かれています。とっても細かく丁寧です。

吉原風俗図鑑の1枚では、編笠を被った武士ふたりと女将と男が川の前にに立っており、小舟が1艘、岸に着いています。奥の1艘は帰る舟でしょう。
見世の前をそぞろ歩く客達と、格子窓から顔を突っ込み物色中の二本差しの武士ふたり。遊女達に案内され妓楼に入る客もいます。
怒った客になだめる禿と若い衆、泣いている遊女もいます。台所は支度の真っ最中で、バタバタと女が走り回っています。
お付きの者ふたりが迎えにきており、多分身分の高い武士でしょう。見送りをする遊女と禿と手代がいます。
ストーリーが想像できるように描かれています。ひとりひとりの表情もかき分けられており、とても興味深いです。

続いて、風俗画や美人画と約250年の歴史をたどります。

寛政から享和期(18世紀末~19世紀初頭)に発行された美人画で遊女たちを描いたものは、遊女絵と呼ばれていました。
喜多川歌麿は吉原の中から遊女を描いていて、風呂上がりの絵が残っているあたり、彼女らの信頼も厚かった気がします。
また、蔦屋重三郎のプロデュースで上半身のみを描いた美人画がヒットし、浮世絵界に大きな影響を与え、江戸中の女性にも影響を与えます。

蔦屋重三郎といえば、来年(2025年)NHK大河ドラマ「べらぼう」の主人公、主役は横浜流星さんです。喜多川歌麿や葛飾北斎の才能を見い出し世に送り出した、江戸時代の版元です。
横浜流星さんは陰のある役を演じる事が多い印象ですが、今度の役は美的感覚に優れたアイデアマンで陽キャラのイメージ。今年の「光る君へ」も、とても面白く毎週必ず見ていますが、来年も楽しみです。長生きしなきゃ!です。

どの美人画も綺麗に結った髪に1本か2本垂れていて、肌が柔らかそうで妙に色っぽいです。半襟も今と違って乱れたままです。

喜多川歌麿、歌川国貞、葛飾北斎、歌川広重……もっとたくさん名前が有ります。遊女たちのカラフルな模様の着物たち。帯もひとりひとり違います。

18世紀後半になると、客層も大衆化し、花魁道中は変わらず行われていましたが、遊女と芸者が別になります。芸者は色を売りませんでした。
遊女もランク付けされ花魁がトップになり、ランクが下になると呼び名が変わります。なんて残酷なシステムでしょう。
見習いも禿、振袖新造とランクができます。盛り上げ役に女芸者、男芸者がいて、マネージャー役の女性もいました。
世話役の男性の総称は、若い衆です。年取ったら何と呼ばれていたのかは……分かりません。

富裕層や文化人と互角に渡り合うため、花魁たちも教養を身につけ、琴、三味線、花、香、書、画、和歌、漢籍、狂歌…など勉強しました。
容姿が良いだけではトップの座に君臨出来ないのは、現代と同じです。

遊女の髪型のひな形のほか、武士のヘアカタログのようなものも有ります。当時は遊女に会うときは男性も精一杯のおしゃれが必要だったそうです。

最後は妓楼の立体模型に辻村寿三郎の人形を置き、当時の生活を再現しています。
辻村寿三郎さんは旧名「辻村ジュサブロー」さん、NHKの「新八犬伝」「真田十勇士」の人形を作った方です。小学生の時に毎日夕方、「新八犬伝」見ていました。
小さな人形の表情や着物、それぞれが置かれた場所に興味がつのります。

一見華やかですが、遊女たちの暗い部分の説明もあります。
吉原の火事のほとんどが遊女の放火事件らしい事や、何か忘れたけど遊女たちの嘆願書もありました。

昨日見た映画「碁盤切り」にも、遊郭から恋人と共に足抜けした遊女が、見つかり引戻されるシーンがありました。
男女とも半殺しにされ、男は橋から吊り下げられ見世物に、女はさらに半殺しのリンチです。死ぬこともあったようです。それが吉原のルールでした。

子どもの時に貧しい家から売られてきて、仕事で借金を返さなければなりません。
身請けもされず売上も少ない下級遊女は、一晩に何人も客を取ったり、身を粉にして働き続けなければならなかったのです。

映画の中の大女将(小泉今日子さん)は、9歳の時に遊郭に売られ、苦労して自分の才覚だけで(詳しくは不明ですが)楼閣を経営している立身出世の元遊女です。

遊女にもそれぞれの人生があったと想像します。

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