「沢田研二」著者 中川右介 「ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒」著者  島﨑今日子 2冊読む

 たまたま同時期に2冊読む

私が初めて好きになったスター、ジュリーこと沢田研二。(以下、ジュリー)。
初めて見たのは小学校4年生の時、「危険な二人」を歌っていました。
のけぞるように歌う姿に、ひっくり返ってしまうんじゃないかと驚き、目が離せなくなりました。
そしてなによりカッコ良くて色気がありました。子どもでも色気というのは言葉は知らなくても理解できます。

テレビの歌番組が楽しみになり、お小遣いでレコードを買いました。
途中で暴力事件を起こして謹慎しても私の気持ちは揺らぎません。
結婚して多額の慰謝料払って離婚して、また再婚しても、ヒット曲が無くなり太って落ち目になっても、歌い続ける生き様が好きです。
懐メロ歌手と呼ばれたくないからテレビには出ないと言ったり、お客が入らなくてコンサートが直前でキャンセルしてもファンは許します。

渋谷公会堂のコンサートでは昔の歌はアンコールまで歌わず、アルバムの歌ばかりで知らない歌ばかり続く、耐久レースのようでした。
途中でSMAPにはまりましたが、いつも心にはジュリーがいました。

中川右介さんの本「沢田研二」では、生い立ちから1970年代末までの芸能界の歴史も含めて書かれています。
渡辺プロダクションの創業者「渡辺晋さん」「渡辺美佐さん」、キャンティ創業者であり流行の最先端であった川添浩史・梶子ご夫妻、
タイガースのメンバーや当時の流行歌手の皆さん、関わりのあった「内田裕也さん」、ライバルたち、ショーケンこと「萩原健一さん」のこと。
関連人物一覧表や日本レコード大賞の各受賞者名、紅白歌合戦の出場者名の一覧もあり、司会者や視聴率まで記載されています。
おのおのが出版された本でたくさんのエピソードが紹介されています。
参考文献の多さに感動します。

ジュリーは1966年に京都で活動していた「ファニーズ」というバンドにボーカルとして加入したのが歌手活動のきっかけです。
スカウトされた翌年「ザ タイガース」というグループ名で渡辺プロダクションからデビューします。

同時期に活躍したジャニーズについても書かれています。
同じ年に開催されたウエスタンカーニバルで初代ジャニーズも出演しており、アメリカから帰ってきたジャニー喜多川氏がタイガースを見て「どこから見つけてきたのよ」と悔しそうに内田裕也さんに言ったそうです。
内田裕也さんは、京都でバンド活動をしていた彼らを発見し、デビューに力を貸した人といわれています。
2009年に二人のジョイントコンサートを見ました。内田さんは白髪のロン毛で衣装もスタイリッシュで、ステッキを持つ姿が本当にカッコ良かったです。

その当時デビューしたバンドはグループサウンズと呼ばれ、アイドル的人気を得ますが、ブームは陰っていきます。「ザ タイガース」も1971年に解散します。
1970年には日本語でロックが出来るかの論争もありました。これはどう決着をつけたのか分かりません。

1971年に「PYG」というバンドを結成し、本格的なロックを目指しますが失敗します。
同じ年にソロデビューします。1973年に「危険な二人」が大ヒットし、そこからヒットを連発し数々の賞を受賞しています。

この本は1978年NHK紅白歌合戦で終わります。
紅組のトリは山口百恵さんの「プレイバックPart2」。白組はジュリー「LOVE(抱きしめたい)」。
本書にはこう書かれています。
『髪が長いためNHKから追放され、識者からは理由もなく嘲笑され、誰よりもロックが好きなのにロックファンからは空き缶を投げられ、
結婚するとファンからは裏切り者と断罪され、下手だと罵られ、男のくせに化粧をしておかしいと言われ、ナチスを美化するのかと批判された歌手は、ついに頂点に立った。』

昭和歌謡マニアの方達は必読の本です。
レコード大賞や当時の歌番組についても500ページ以上にわたり詳しく書かれています。
当時の芸能界がくわしく書かれており、天地真理さんの記述については気の毒で泣きたくなります。
真理ちゃんは日本の元祖アイドルだと私は思っていますから、もっと評価されるべきです。

島﨑今日子さんの「ジュリーがいた」には、デビュー前~テレビに出なくなったその後のジュリーの、2022年公開された映画「土を喰らう十二ヵ月」くらいまで続きます。

スターになるにはファンの応援以外にもスタッフや関係者の力も必要ですが、演出家の久世光彦さん、ロック歌手の内田裕也さん、元ワイルドワンズでプロデューサーの加瀬邦彦さん等の男達にどれだけ愛されたかが書かれています。
たくさんの人たちが創造意欲をかきたれられ、映画やドラマ、パルコのポスター、舞台を作っていったことがわかります。
ジュリーの化粧やヌードを受け入れてきたせいか、「男は男らしく女は女らしく」というものに私が反感を覚えるのも、多少関係しているかもしれません。

ジュリーの魅力を倍増ししたのは、衣装を担当していた早川タケジさんの力も大きいと思います。
早川タケジさんは長沢節主宰の美術学校「セツ・モードセミナー」の卒業生でした。実は私も卒業生です。
いつかブログで当時の思い出を書きたいと思いますが、ずっと変な人呼ばわりされて気にしていた私を救ってくれたのは、セツ・モードセミナーです。

それはさておき、次々に大胆な衣装を着こなすジュリーもさすがと思います。
TOKIOの衣装は電飾のパラシュートで、これでどうだ!というような躍動感を感じました。
ライバルであり友人だったショーケンこと萩原健一さん、バックバンドのメンバーの入れ替わりや、「ザ・ベストテン」等のテレビの関係者についても詳しく書かれています。
でも、1983年発売のシングルから徐々に売上枚数が減っていきます。
新曲がヒットしなくなり、本人もスタッフもどうしていいか分からない状態だったようです。

1985年に渡辺プロダクションから独立し、個人事務所を設立します。
同年「我が名はジュリー」という半自叙伝を出版します。これ私も買いました。今でも持っています。

世の中はバブル期になり、なぜかテレビの歌番組が無くなっていきます。歌はテレビドラマからヒットするようになります。
1989年にベーシストの吉田健をプロデューサーに迎え、中年男の格好良さ全開にし、アルバムはロックっぽいカッコイイ曲が多いのですが、セールスが低迷していきます。
のち、セルフプロデュースに行き着きます。2001年に一時的にテレビに出ますが、しんどいとの理由でまた出なくなります。
2002年に過去の映像をテレビで解禁。それまでは「懐メロ歌手ではなく現役の歌手だ」といって、テレビで過去の映像見られなかったんですよね。
若い人達にもジュリーの格好良さを知らしめる事が出来たのは嬉しいです。

2008年、還暦記念コンサート「人間60年・ジュリー祭り」行きました。約6時間半でフルコーラス80曲歌うなんて普通の人には出来ないですよ。プロの歌手として執念を感じました。

2018年、柴山和彦のギター1本で歌う2人ユニットのコンサートも「どうだ!聴け!」的な凄みを感じました。相当実力がなければ完成しないコンサートだと思います。
2023年6月25日には因縁のさいたまスーパーアリーナで『沢田研二 LIVE 2022-2023「まだまだ一生懸命」ツアーファイナル バースデーライブ!』が開催されました。
この時も見に行きました。ジュリー75才の誕生日でした。色々悪意のある記事が書かれていましたが、リベンジ大成功です。

2022年には2本の映画が公開されました。主演映画「土を喰らう十二ヵ月」では、チャーミングな演技でいくつか主演男優賞を受賞しています。

この2冊を読んで、スターになる人というのは、やっぱり愛される才能のようなものが必要なんだなと改めて思いました。
自分が望みとかは関係なく運命に導かれてトップに立つような、そんな星を持っている人。

ジュリーは年をとったけど、私も同じく年を重ねたから、これからもずっと応援していきます。

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